熊沢 蕃山 くまざわ ばんざん
   

学問之道無他、
其放心而已。
学問の道とは他ならず、
その放たれた心を推する(推量する)ことに尽きる。
『孟子』告子章句上11
孟子曰。仁人心也、義人路也。舍其路而弗由、放其心而不知求、哀哉。人有?犬放、則知求之。有放心,而不知求。學問之道無他、其放心而已矣

仁愛とは人の心である。正義とは人の道である。正義の道を捨て道標もなくさまよい、仁愛の心を失って探すこともしない。哀しいかな。それが今の世の中だ。人は財産を失えばきっと探し求めるだろう。なのに心を失って、なぜ探そうとしない。まず私たちが学ぶべきは、この失った心を取り戻すことだ。他にはない。
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元和5年(1619)生〜元禄4年8月17日(1691年9月9日)歿
 京都稲荷(現・京都府京都市下京区)の浪人であった父・野尻藤兵衛一利と母・亀女の6人兄弟の長男として生まれる。本姓は野尻、幼名は左七郎、諱は伯継、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後助右衛門と改む、蕃山・息遊軒・有終庵主と号した。8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗った。
 寛永19年(1642)伊予国大洲藩を致仕し郷里の近江国小川村に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学んだ。正保2年(1645年)再び京極氏の口添えで岡山藩主池田光政につかえる。
 慶安4年(1651)庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草し、これが蕃山の致仕後の寛文10年(1670)日本初の庶民学校として開かれた「閑谷学校」の前身となった。
 承応3年(1654)備前平野を襲った洪水と大飢饉の際、光政を補佐し飢民の救済に尽力する。零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させた。しかし、大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらし、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者である蕃山は、保科正之・林羅山らの批判を受けた。このため、岡山城下を離れ和気郡蕃山村(岡山県備前市蕃山)に隠棲を余儀なくされた。なお彼の号「蕃山」の名はこの地名に由来する。
 明暦3年(1657)39歳で幕府と藩の反対派の圧力に耐えがたく、遂に岡山藩を去った。
 のち京都にうつるが,有名になるにつれ中傷も激化し,諸国を転住。著作「大学或問(わくもん)」で幕政を批判したとして下総古河(茨城県)に禁固となり,元禄4年死去。
 著作は『集義和書』『集義外書』など多数。
 「」の下に、白文の「」、朱文の「」の落款印が押されている。

推奨サイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1
http://www.touju.jp/banzan.html
http://ss7.inet-osaka.or.jp/~agorisy/banzan.html


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